コミュニティ・スクールが1183校に増えた。かなりの増え方だ。
コミュニティ・スクールは、教育のことは現場に近いところで、関係者が責任をもって考え、判断し、実行するということを実現するシステムだと思う。 「地域密着型学校創造システム」といってもいい。 こういうことを言うと、地域の人が学校に入ってきたら、余計なことは言うは、教育のことを知らないで勝手なことを言うは、混乱しそうだ、という意見を言う人が必ず出てくる。教員であっても、市民であっても、そういう懸念を語る方が必ずいるものだ。でも、そういう人が建設的で前向きな解決策を出しているところを見たことが僕はまだ無い。 僕が一番嫌いなのは「懸念」ということだと気づく。 教育に携わる以上、「懸念」に重きを置くべきではない。そもそも、学校というシステムが、教員というパブリックでありながら、実はパーソナルな存在に多くの権限をゆだねている極めて「懸念」されやすい存在なのだから。 「懸念」よりも「建設的」「創造的」「問題解決的」というフレーズに重きを置きたいものだ。 コミュニティ・スクールの数が増えたこと自体を評価するのは意味が無い。しかし、それだけ地域密着型の学校創造を進めようという教育委員会と学校が増えたこと自体は歓迎すべきであろう。 教員の資質として必要なことを明らかにしたい。
例えば、お菓子屋さんなら、当然、おいしいお菓子とは何か、またその作り方に精通していなければならない。さらには、原材料の仕入れ先の開拓と経費の適切な管理が求められる。 教員はどうか? 子どもを知っていること(知る努力を惜しまないこと)、その育て方に精通していること(精通しようとしていること)であろう。さらには、教育の充実のための素材とその入手方法を自ら手に入れていることであろう。 つきつめれば、たゆまぬ情報収集と情報を基にした施行錯誤につきる。情報収集は決して狭いものではならない。ちょっと異なる分野からの情報にも目を向け、受け入れ、租借し、分析して、必要なことは取り入れる柔軟な姿勢が必要だ。結局、教師が「自ら学ぶ」という姿勢をもっていることが、子どもや保護者の信頼を得ることに直結する。 子どもも保護者も教師をよく見ているのだ。何となく教師をやっているのなら、すぐにその姿勢を猛省し、改めてほしい。教師をやっていてつらいのなら、誰かに相談してほしい。とにもかくにも、教師として生きていくなら、学ぶということを忘れてはいけない。それは、子どもの抱える問題から逃げるという行為に直結するから。 忘れてはいけない。子どもの大切な成長過程に大きな影響を与えるのは教師なのだ。 教員は人がいい。
これにつきる方が多い。 また一方で、プライドが高い。 これにつきる方も多い。 保護者からのクレームに対して、的確で柔軟に対応できない教員の場合は、これらが影響している、と思う。 対応の基本は、できることとできないことは明確に、わからないことはいったん保留に、でも迅速に、教員としての法的な権限を超えていることはちゃんと「そこまでの権限はないのです」言う、などということだと思うのだが、こうしたことが踏まえられないで対応して泥沼に入っていくケースって多いのではないだろうか。 何も杓子定規に対応する必要はないのだが、基本原則をおさえているのといないのとでは対応のあり方に大きな差が出てくるのは事実だ。 この基本原則をおさえた上で、保護者の心情に寄り添って話を聞くことが解決の早道でもある。 恐れて、よく聴かず、あれもこれも守ったり、うっかり約束したりするということが一番犯してはいけないことだろう。 モンスターペアレントという言葉はまだ生きているのかな。
マスコミではあまり聞かないけれど、現場の学校では理不尽と思われるような苦情、要求がひっきりなしに繰り返されているのだろう、と推察する。個別具体的な事案についてはマスコミに取り上げられることは少ないから何となく学校は保護者対応で苦慮していないのかな?と思ってしまうが、たぶん、そんなことはないのだろうと思う。 だって、一度出てきたことってそう簡単になくならないですよね。どんなことも。 もはや保護者からの苦情は学校にとっての標準職務になりつつある、と考えることが必須なのだろう。 プロのサッカーでは、試合に負けるととんでもないブーイングがある。何年か前には、ブラジルで選手が殺されるなんてこともあったくらい過激だ。学校も、保護者がサポーターだととらえたらどうか。ミスをすれば当然バッシングが待っている。今どきの保護者ってどうしようもない、と嘆いて解消するのではなく、どの学校も標準装備として、バッシング対応方策を用意しておくことが必要ととらえるのだ。 管理職がはらを決めて、苦情対応は任せろ、と構えてくれたら、担任はとても安心だろう。 この意味では、管理職の能力が極めて重要である。 ああ、でも世の中の管理職は、管理も指導も助言も、備えも何もできない人が多いのが現実なのだ。 だって、教員になった人は、そもそも、管理することなんて望んでナインだから。ああ。困ったなあ。
教育の第三者は「これが大事、と語ることが得意」
教育の当事者は「こうやればいい、と行動することが得意」 被教育者は「何が大事なの?と疑問をもつことが得意」 主語的世界は、物事を矮小化する。 誰かの主語に乗り換えて考える他者的世界を自己のうちなる世界にもつことが、 教育をよりよいものとする一つの在り方だ。 理想の教育・子育ては誰にとってのものか。それは、被教育者にとってのものであることは 言うまでもない。 第三者と当事者が「被教育者」の目線を考慮せずによりよい教育を考えても意味がない。 よりよい社会のために教育がある、との論には意味があると思うが、よりよい社会が不明確な今、 よりよい人間として成長してもらうために教育がある、と考えるしかない。 よりよい人間とは何か。それは、常に思考し続け、よりよい社会を志向し続ける人間であろう。 よりよい社会の姿は不明確でも、よりよい社会を追い求めることはできるし、重要だ。 そんな現状打開的思考力・行動力を身につけることが教育の命題ではないか。 あー固いし、完成できてない、この思考。
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