ぼくが教育について思うこと

カテゴリ:教育( 95 )

的確な判断

以前、こんなことがあった。ある学校でいわゆる「落ち着きの無い子」がいるので、その子についての分析を見て欲しいという。
分析を見て驚いた。端的に言えば、二つの情報があって、それらが完全に分断していたのである。
情報①「その子はいつも指示したことを聞き返しに前に出てくる。そのため、授業に支障が出る。」
情報②「その子は、右耳に難聴がある。」
もうお分かりだろう。「その子」は、教師の指示が聞き取りにくいのである。それでも、何とか理解したいと思って前に出て聞き返すのだ。それも何度も、教師が「いい加減にして欲しい」と思うほどに。それだけ、「その子」は真剣で、真摯なのだ。
ここに教育現場の悲劇がある。情報①と②を関連付ければ、「その子」に対する対策も見えてくるのに、それを怠っているが故に、「その子」はないがしろにされる。聞こえにくいから、聞き返すだけなのに・・・。
悲しいかな、一人の見識の低い教師の思い込みや独断で物事が進むということが許容されるのが学校なのだ。
これは、教師の資質や能力の問題でもあるかもしれないが、そもそも、そのようなことが許容される学校のシステムに問題を見出すべきだ。極論を言えば、あまりにも教師一人一人の状況分析能力と判断力に任されている領域が多過ぎるのである。教師は万能ではない。
組織として、「その子」の現状を分析し、適切な対応、指導を行うことができるよう、体制を整えて欲しい。
そうでなければ、相変わらず、メンタルで休職する教師も減らないし、なんといっても「その子」が報われない。
このような現状認識にたって対策を打つ校長が一人でも多く現れることを期待して止まない。「その子」のために。
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by k1satok1 | 2012-01-18 00:50 | 教育

国旗国歌裁判に思う

東京都の公立学校教員の最高裁判決が出た。
簡単に言えば、過去3回起立しなかったからといって停職処分はやりすぎでしょう。ということ。
この後、さして大騒ぎするほどのことでもないと感じる。戒告は否定されていないのだから、違法は違法なのだ。
したがって、これはこれで、教員の行動に対する違法性のレベルを明らかにしたという点で意味があると思う。
しかし、気になるのは、その後の会見での原告の言葉。
戒告は否定されていないのだから、当然、戒告となったことに対しては、素直に謝るべき。
なのだが、最高裁判決の一面でしかない停職不適当にのみコメントし、肝心の戒告にコメントが無い。
これは過ちを認めていないのに等しい。
仮にも人にものを教える立場なのだから、少なくとも、過ちは認めようよ、と思う。
法律に対して公正に向かい合う度量がないのであれば、教員を辞めて訴訟を続けるべき。
こういう人たちは、子どもが「自分は掃除などしたくない。それは僕の信条に反する。」と主張したら、当然、掃除を免除するのだろうな。もはや、公平・公正な態度を養う教員としての責務はどこにも見当たらないけど。
国旗国歌とまではいかなくても、これと同様のことは意外と多く、かつ埋もれて、日常に当たり前のように存在している。
例えば、昔一緒に働いていた教員で、こんな人がいた。
障害があって、十分に歩くことができない子どもを担任していたA先生。その子への指導にどうしても甘さが出た。
その子が他の子をたたいたり、悪口を言ったりしても、障害があるのだから、と周りの子に我慢を強いた。まったくの本末転倒である。大げさかもしれないが、犯罪者を育てていると言っても過言ではない。ルールはちゃんと指導すべき。こんな指導は、決して公正でも公平でもない。最低限のルールを教えてこそ、公正・公平が担保される。ここは国旗国歌と同じ。そのルールが間違っているというなら、法律家として人生をやり直すか、市民活動家となって大いに議論して欲しい。本気で社会を変えたいなら、今の制度で公正・公平を確保するべき教員の立場から去ろう。
とはいっても、前述の教員は、そんなことまで考えていなく、単に勉強不足、思考停止状態だったのだろうけど。
今日は、かなり辛口。
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by k1satok1 | 2012-01-17 23:01 | 教育

ミッションインポッシブル

困難な仕事。学校の教員にとって困難な仕事とは何か。それは、自分の経験値を大きく超える仕事である。同僚に質問すれば何とかなる程度の仕事も多いのだが、残念ながら、その同僚がいない場合も多い。小規模校であればなおさらである。ねじまがった組合くずれの教員がいるともっとたちが悪い。自分が若い頃は研修などしなくて、自分で勉強したなどと平気でのたまうから困ったものだ。こういう教員は早く退場して欲しいのだが、あと10年は我慢だ。
教員の中には、若い教員に困難な仕事をあえてぶつけて育てようとするタイプの人もいる。たいていは若手にとってありがたいのだが、中には、自分がすべき仕事を押し付けていることと、育てているつもりと混同しているものがいる。仕事を与える際に、その必然性を理解させ、仕事の後にフォローアップすることこそ育てるということなのに、単に仕事をシェアしてしまうバカな先輩教員もいる。これが学校文化の負の側面の一つである。
こうしたちょっとしたことは、管理職の目に止まりにくく、理不尽な中で進行しやすい。子どものいじめの高度版である。自分の言動・行動が本当に公平であり、公正であるのか、そして、その上で、後輩を育てるものとして適切なのか、先輩と言われる教員はもっと真剣に悩むべきである。
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by k1satok1 | 2012-01-16 17:13 | 教育

マジョリティとマイノリティ

サイレントマジョリティとノイズィマイノリティの問題がある。一般的、大衆的な声を有する大半の市民はえてして声を出さない。一方で、ごく少数の人々の中に自己の権利を守るために声を大きくするような人々が見られる。
それ自体はなんら問題がないのだが、それらの声を受け止める側が、どう対処するかという点で問題が生じてくる場合が多い。
行政や学校は特にその影響を受ける傾向にある。いわゆる言ったもん勝ち。このような状況を打破するには、みんなが一人残らず「言った者」になればいい。そのためには、大衆の声を吸い上げるシステムが必要である。
そこに気づいている校長先生はわずかかもしれないが、ちゃんといる。
知り合いの校長先生は、地域や保護者の声を聞くことから学校づくりをはじめるように心がけている。
それは、何の意図も無くフラットに声を聞くというもの。フラットに聞く、受け止めるというところから本当の改革が始まるのだと思う。これを履き違えて、自分の都合の良いことを聞くことに傾注する校長先生は、まやかしである。
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by k1satok1 | 2012-01-15 23:01 | 教育

教員について

教員として15年、教育行政に5年、国家公務員として2年の経験を経ようとしているが、この間、さまざまな思いを抱きつつ仕事をしてきた。教員であっても、行政マンであっても、不適切な仕事だなと感じざるを得ない仕事ぶりの人はいるものである。ということが分かった。どんな仕事でも、子どもに見せて誇れるか?という観点から評価してみるといい。自分がさほど誇れることはしていないということが分かるはずだ。
大人といえども、公務員といえども、弱さをもっている。それを自分で認めてなおかつ一歩踏み出せるかが、いい仕事ができるかどうかの分水嶺である。
自分の先輩教員にこんな人がいた。通知表の作成をしているある日、「あ、しまった、このコメント別の子のものだった。違う子のコメントを書いてしまった。」と先輩。どうするのかと見ていたら、なんと「まあいいか。似てるし。」
23歳だった自分に注意する勇気はなかったが、今思えば、教師である自分の教師不信はこのとき開花したといってもよい。これが教師か?と。
今の教員にそのようなことはないのかもしれないし、この人が特別かもしれないが、この先輩、今では校長としてがんばっている。そのがんばりが本物であることを願わずにはいられない。
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by k1satok1 | 2012-01-14 00:32 | 教育



教育について、激しく、でも温かく語ります。

by 教育鳥クロニクル
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